縄文の神聖幾何学

「ホツマツタヱ」「ミカサフミ」「フトマニ」に秘められた神聖幾何学の叡智を探る。

もうひとつの国生み神話(3)

 前回の続きです。

3. 言葉のリズム

<1回目>

  • 古 事 記   5・4(文字数)
  • ホツマツタヱ  5・4(文字数)

<2回目>

  • 古 事 記   5・(文字数)
  • ホツマツタヱ  5・(文字数)

 

 『ホツマツタヱ』では1回目、まず初めに女神のイザナミが「あなにえや、えをとこ」と言葉を掛け、その後、イザナギが「わなうれし、えおとめ」と応えます。そうしたところ、不具の子が生まれてしまいました。そこで、占いをした結果、女が先に声をかけたのがよくないと分かったのですが、じつはそれだけではなくて、もうひとつ分かったことがありました。それは「ヰヨの歌は事を結ばない」(五四調の歌は物事が成就しない)ということです。これは『古事記』には書かれていません。

 2回目に、イザナギが「あなにゑや、うましおとめに、あいぬ」と、また、イザナミが「わなにやし、うましをとこに、あひき」と、五七三の歌を歌ったのは、そのためでした。

 では、五七三の歌とは何か。それを知るためには、これまた『ミカサフミ ワカウタのアヤ』を読む必要があります。
 
(1) 五七三の歌

 『ワカウタのアヤ』によると、五七三の歌は、真ん中の七音が元となっていて、人のムツネ(六音=六腑(内臓))に配り置かれている。また、初めの五音は人のミ(見目形(みめかたち)、顔)と手足にあたる。そして、終わりの三音は三つのアナ(宇宙の中心アウワ)を表す。といったことが書かれています。

 また、イザナギの歌った「あなにゑや うましおとめに あいぬ」の「うましおとめに」の中に、「う(ましおとめ)に」というように「丹(に)を生(う)む」ことを織り込んでいる、ということも書かれています。(丹生については『ヲシテと古代錬金術』をご参照ください。)

 

(2) 月の満ち欠け

 また、五七三を足し合わせると15になりますが、その数にも意味があって、それは月の満ち欠けの日数を表しています。男神の歌う15音が新月から満月までの15日、そして、女神の歌う15音が満月から新月までの15日です。その2つの歌で1セットであると書かれています。

 前回のブログに掲載した池田先生の「アナニヱヤ」「ワナニヤシ」の解説を改めて掲載します。

「アナニヱヤ」
「ア(宇宙の中心からのもたらし)」の「ナ(成る働き)」に「ヱ(跳ね返って及ぼす)」の「ヤ(跳ね返って茫洋としている)」の意味

 

「ワナニヤシ」
「ワ(地表上現実的な)」の「ナ(成る働き)」に「ヤ(まとめて返す)」の「シ(為しゆき)」の意味

 「アナニヱヤ」を目に見えない新月に、また、「ワナニヤシ」を目に見える満月になぞらえているのが分かるでしょうか。端的に言うと、「アナニヱヤ」=新月=無、「ワナニヤシ」=満月=有、です。月の満ち欠けのように、無から有が生じ、有から無に帰る。「あめのあわうた」(天のアワ歌)とも呼ばれる「アナニヱヤ~」と「ワナニヤシ~」の歌には、そんな宇宙創造の秘密が織り込まれているのです。

 『ワカウタのアヤ』、恐るべし。まったくすごい写本が見つかったものです。

 

 余談ですが、ひふみ祝詞というものがあります。ご存じの方も大勢いらっしゃると思います。いろは歌のように、47文字をすべて一度ずつ用いてつくられています。日月神示によると、ひふみ祝詞は以下のように3・5・7、3・5・7、3・5・9と区切って唱えるようです。上に述べた五七三調の歌と何か関係があるのかもしれませんね。

ひふみ よいむなや こともちろらね
しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか
うおえ にさりへて のますあせゑほれけ

 

4. 「あいぬ」と「あひき」

 さて、『ホツマツタヱ』では、2回目、イザナギが初めに「あなにゑや、うましおとめに、あいぬ」と言い、次にイザナミが「わなにやし、うましをとこに、あひき」と応えました。

 最後の3文字、「あいぬ」と「あひき」に注目ください。この違いの意味することが分かりますか? それを知るには、これまた『ワカウタのアヤ』を読む必要があります。

 『ワカウタのアヤ』では、その違いを筏と鴨舟に例えて説明しています。筏は川の流れのままに運ばれるにすぎません。それが「あいぬ」です。一方、鴨舟は、鴨が川を下ったり、上ったり、横切ったりと自由に泳ぐ様子を見て作られた、櫂で自由に操ることのできる舟です。鴨舟は、自分の意図する方向に漕ぎ進めることができるのです。それが「あひき」です。

 「あいぬ」と「あひき」の言葉のニュアンスの違いを感じてみてください。「あいぬ」よりも「あいき」のほうが、強い意図が込められていると思いませんか?

 『ワカウタのアヤ』には「ネコエのミチ」や「ヤマトコトハのミチ」という言葉が出てきます。私は、「ネコエのミチ」とは言葉のもつ波動により無から有が生まれること、また、「ヤマトコトハのミチ」とは強く意図を込めて歌を詠み、言葉のもつ力によって現実を生む方法だと解釈しています。要するに、言霊(ことだま)のことなのですが、ヲシテ文献には言霊という単語は出てきません。


5. 失われた叡智

 以上、3回に分けて、国生み神話における『古事記』と『ホツマツタヱ』の違いと、『ミカサフミ ワカウタのアヤ』に基づき、その違いが持つ意味合いについて述べました。

 お分かりのように、『古事記』では縄文の叡智がごっそりと抜け落ちてしまっています。『ホツマツタヱ』は『古事記』『日本書紀』の原書であると私が考えるのは、こうしたことによります。『古事記』を編纂した当時の人々より、縄文人のほうがずっと深い叡智を持っていたことは明らかです。そして、現代の私たちも縄文の叡智に学ぶべきことが多々あると思います。

 

<追伸>

 今回の記事にご興味を持たれた方は、ぜひ、池田満先生の『よみがえる縄文時代 イサナギ・イサナミのこころ』をお読みください。決して読みやすい本ではありませんが、『ミカサフミ ワカウタのアヤ』に記された、底の見えないくらいに深い縄文の叡智に触れることができます。

 

文責:与左衛門、共同研究者:角大師

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