縄文の神聖幾何学

「ホツマツタヱ」「ミカサフミ」「フトマニ」に秘められた神聖幾何学の叡智を探る。

ヲシテ文献から読み解く三内丸山遺跡の六本柱

<目次>

1.    大型掘立柱建物

 昨年11月13~14日、相方と共にかねてより一度訪れてみたかった青森の三内丸山遺跡へ行ってきました。

 三内丸山遺跡は今から約5,900年~4,300年前までの間、1,700年にも渡って続いた縄文時代の集落の遺跡です。最盛期の竪穴住居数は約100棟、人口500人ほどの大集落だったようです。当時、日本のみならず世界でも有数の都市(?)だったと思われます。

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四大文明との年代比較

 広い敷地には数々の建物が復元されていますが、中でも圧巻は国内最大級の大型竪穴建物と、そして、かの有名な大型堀立柱建物です。

 大型堀立柱建物の高さは14.7m。これは3~4階建てのビルに相当します。今回念願が叶い、三内丸山のランドマークタワーともいうべき、そびえ立つ大型堀立柱建物の実物を間近に見上げて大感激です。

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大型掘立柱建物

2.    六本柱の謎

 大型堀立柱建物のすぐ近くに、巨大な六本の柱跡を見ることができます。そこが実際に大型堀立柱建物の建っていた場所です。

 柱穴は直径約2mで、深さも約2m。人ひとりがすっぽりと入って余りある大きさです。そして、その中に直径約1mのクリの柱が入っていました。また、穴と穴の間隔はすべて約4.2mで、整然と配列されています。

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掲載元:https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/

 この巨大な六本の柱跡は一体何なのか。ここに何が建っていたのか。それは何にために建てられたのか。

 現在遺跡にある大型堀立柱建物は、建物として復元されていますが、後日知ったところによると、神殿説、望楼説、見張り台説、また、そもそも建物ではなく柱そのものが立っていたとするトーテムポール説などいろいろあって、いずれも決め手を欠き、今もまだ決着はついていないそうです。

 何が建っていたのか。何にために建てられたのか。このブログの記事では、素人考えではありますが、私なりの解釈を提示したいと思います。

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さまざまな復元案(掲載元:「特別史跡 三内丸山遺跡」(東奥日報社))

3.    ヲシテ文献に記された情景

 三内丸山遺跡ではこれまでに約800棟を超える竪穴住居跡が確認されています。それらの建築には主にクリの木が使われています。

 クリの木は、三内丸山に集落ができた時期から増加していることが研究により判明しています。つまり、彼らは集落のまわりにクリ林を栽培していたようなのです。

 クリは建築材だけでなく、もちろん、彼らの重要な食料源であったことは言うまでもありません。彼らの暮らしはクリによって支えられていた、といっても過言ではないでしょう。

 じつは、そんな当時の情景が「ヲシテ文字」という神代文字で書かれた『ミカサフミ ハニマツリノアヤ(埴祀りの文)』の写本に描かれています。

クニトコタチノ カミノヨニ (クニトコタチの 神の代に)
ムノタミメヨリ ムロヤナル (ムのタミメより ムロヤ成る)
マヅハオナラシ スギハシラ (まず場を均し 直ぎ柱)
ムネオカツラニ ユヒアハセ (棟をかつらに 結い合わせ)
カヤフキスミテ コノミハム (茅葺き住みて 木の実食む)
ヲシヱヲタミニ ナラハセテ (教えを民に 習わせて)
クニトコタチノ カミトナル (クニトコタチの 神となる)
コレヨリサキハ (中略)  (これより先は)
アナニスマエハ ヒトナラズ (穴に住まえば ヒトならず)

 神代の時代、クニトコタチは竪穴住居の作り方を民に教えました。それは「ム」のヲシテ文字に形が似ていることから「ムロヤ」と呼ばれました。その教えのおかげで、民は竪穴住居を建て、クリ等の木の実を食べて暮らすようになり、食と住まいの環境が飛躍的に改善されました。ムラは栄えてクニとなり、クニトコタチは初代アマカミ(古代の天皇の称号)に就任しました。

 それより前は、人々は洞穴などに住んでおり、動物のような遊動的生活を営んでいました。ところが、竪穴住居やクリの栽培によって定住的な生活が可能となったのです。これは人類史における大変革であり、それによって飛躍的に縄文文化が形成されていくことにつながるのです。つまり、“ヒトになる”わけです。

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左図の掲載元:https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/upload/img/042_IDEA.pdf、右:「ム」のヲシテ文字

4.    謎を解く鍵

 さて、三内丸山の大型掘立柱建物は一体何のために建てられたのか。その謎を解く鍵となるのが以下の4点です。

(1)強力な指導者の存在

 巨木を切り出して、ムラまで運び、それを加工し、そして建築する。それは間違いなく集落全員を総動員するほどの一大事業であったはずです。しかも、それを建てたところで何の腹の足しにもならない。となると、そんな大号令をかけることのできた強力な指導者がいたということです。

 三内丸山遺跡では、楕円形の穴を掘った一般の墓とは別に、直径4mほどの円形に石を配した特別な墓が23基見つかっています。それらの墓は代々の指導者たちのものかもしれません。

(2)冬至との関係

 縄文文化研究の第一人者である小林達雄氏によると、三内丸山の六本柱とは、3本柱が並行して2列並んでいると考えられ、冬至の日に、なんと3本と3本の柱の間に太陽が沈んでいくのだそうです。また反対側から見ると、夏至の日には、3本と3本の柱の間から太陽が昇っていきます。

 冬至は1年で最も日照時間の短い日。そして、その日を境に徐々に日が長くなっていきます。古代では、世界中の民族が冬至の日を太陽の復活する日だとして祝いました。冬至の日は古代における新年の始まりの日でした。

 小林達雄氏によると、三内丸山の六本柱は季節を知るための日時計であり、彼らは二至二分(夏至冬至春分秋分)を十分に心得ていたようです。

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掲載元:「縄文文化が日本人の未来を拓く」小林達雄

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掲載元:「縄文文化が日本人の未来を拓く」小林達雄

(3)柱の位置の定め方

 前述したように、六本の柱の穴の間隔はすべて約4.2mとなっているのですが、興味深いことに、そこには「縄文尺」が使用されているのだそうです。

 縄文尺とは、人間の手首から肘までの長さが元になっているもので、約35cm。エジプトのピラミッドもキュービットという単位を基準にして作られていますが、考え方は同じです。

 4.2mを縄文尺に換算すると12(4.2m÷35cm)です。三内丸山の縄文人たちは、柱の間隔をなぜ12縄文尺としたのでしょうか。そこには何か意味があるように思えます。

 ところで、三角定規や分度器など存在しない縄文時代の人たちは、この等間隔に整然と並ぶ柱穴の位置をどのようにして定めたのでしょうか?

 これもまた重要な鍵のひとつです。後で私の考えを述べますが、まずは皆さんもクイズだと思って考えてみてください。

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六本の柱穴の位置

(4)盛土

 私は三内丸山遺跡を訪れて、「盛土」(もりど)というものを初めて知りました。

 盛土とは、縄文人が土を盛り上げて造ったものです。三内丸山遺跡では、現在、南・北・西の3カ所で盛土が確認されています。南と北の盛土は2m程の高さで、そこからは大量の土器や石器、食料とした動物の残滓のほか、土偶やヒスイの大珠などが発見されています。

 このように祭祀道具が数多く出土していることから、盛土は、人間や動物、ものなどの魂を神々の世界に送り返す「送り」の儀礼と関連が深いと考えられています。

 また南・北の盛土は、断面調査の結果、薄い層がいくつも積み重なって形成されており、一時期に築かれたものではなく、なんと1,000年にわたって2m程の高さになったことが判明しています。

 大型掘立柱建物の復元作業に携わった大林組プロジェクトチームの試算によれば、土の層が積み重なって圧縮されることも考慮すると、平均して約24年に一度、20~30cmの厚さの盛土を施工したと考えられます。また、仮に1回の施工に2週間かかるとすれば、約132人もの従事者が必要になります。

 プロジェクトチームはこれらのことから、例えば集落のリーダーの交代のような一大イベントにあたって盛土を行ったのではないか、と推察しています。

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南盛土の断面(掲載元:https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/

5.    ヲシテ文献から読み解く

(1)「オオナメヱ」(大嘗祭)のために建てられた

 大型掘立柱建物を建てるにあたり、強力な指導者が存在したであろうこと。

 大型掘立柱建物は冬至の日と関係していること。

 盛土は指導者が変わった際に行われたと考えられること。

 これらのことから導き出される“あるイベント”があります。それはヲシテ文献に記された「オオナメヱ」です。

 ヲシテ文献によると、毎年の「フユイタルヒ」(冬至の日)に、その年の収穫を神々に感謝する「ニイナメヱ」の祭りがアマカミ(古代の天皇の称号)により執り行われていました(新嘗祭の原型)。

 中でも、アマカミが代替わりするとき、新たにアマカミとなる人が神々からその任命を受ける儀式、それが「オオナメヱ」です(大嘗祭の原型)。

 ヲシテ文献研究の第一人者、池田満先生が作成された年表によると、三内丸山遺跡の年代は初代アマカミであるクニトコタチの時代にあたります。しかし、クニトコタチが建国したトコヨクニは琵琶湖の北西、安曇川の流域と考えられています。

 ということは、三内丸山の大型掘立柱建物は、アマカミではないが、当地における有力者がトップの座に就いた際、オオナメヱを執り行うために建てられたものではないか、というのが私の考えです。

(2)大型掘立柱建物は「タカマ」

 オオナメヱでは、まず初めに、宇宙を創造したアメミヲヤの神とト・ホ・カ・ミ・ヱ・ヒ・タ・メの8神を「コホシ」(九星)として「ユキノミヤ」(大嘗祭での悠紀殿にあたる)に祀ります。

 これは、北極星とその周りをまわる北斗七星(輔星を含めると八星)に対する信仰と考えられます。オオナメヱを行う冬至は1年で最も昼の短い日、太陽の力の最も弱い日です。言い換えると、1年で最も夜が長い日、北極星と北斗七星の力が最も強い日ということです。

 次に、地上におけるキ・ツ・ヲ・サ・ネの5神とア・ミ・ヤ・シ・ナ・ウの6神を「ウマシアシガイヒコチ神」として「スキトノ」(大嘗祭での主基殿にあたる)に祀ります。この神は「ハラワタ、イノチ、ミケ」(身体、命、食糧)を守る神とされています。

 そして、これらの天の神々、地の神々を合わせ祀ったところを「タカマ」と呼びました(ミカサフミ第6アヤ)。タカマは祀り事を行う場所であり、また、政事(まつりごと、政治)を行う場所でもあります。

 思うに、三内丸山のそびえ立つ大型掘立柱建物こそが、ヲシテ文献に記されたタカマではないでしょうか。

(3)六本柱に隠された「フトマニ図」

 また、ヲシテ文献には、タカマは縄文人の宇宙観を表す「フトマニ図」(正式名称は「モトアケ」)を地上に写したものだと記されています(ホツマツタヱ第4アヤ)。

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フトマニ図(モトアケ)

 そして、そのことと大型掘立柱建物の六本柱が大いに関係します。

 縄文人は六本の柱の位置をどのようにして定めたのか。

 私は画用紙を広げて、いろんな描き方を試してみました。試行錯誤の結果、以下に述べるような描き方、六本柱の位置の定め方にたどり着きました。そして、実際に手を動かしてそれを描いていると、ヲシテ文献に記されている天地開闢の様子や、あるいはトホカミヱヒタメの8神、キツヲサネの5神、アミヤシナウの6神をこんなふうに祀っていたのはないか、というイメージが思い浮かんできました。

 その描き方は、地面に魔法陣を描くようにして六本柱の位置を定めるのですが、それがフトマニ図を地上に写すこととオーバーラップするように思えるのです。

 具体的には以下のとおりです。もちろん、実際に当時の人々がどのように行ったのかは知る由もありませんので、ひとつの試案としてお読みください。また、最後に動画も掲載していますので、それをご覧いただくのが分かり易いかと思います。

①    ムラの中心に柱を立てる

 ヲシテ文献天地開闢神話によると、アメミヲヤ神のウイノヒトイキ(初の一息)がアメノミハシラ(天御柱)となり、それを中心として天と地が創造されます。

 現代科学においても、星が誕生する際、宇宙ジェットと呼ばれる柱が立つことが分かっています。どういうわけか縄文人もそのことを知っているようです。

 そして、そのことになぞらえて、まずムラの中心をなす地点を定め、そこに杭(柱)を立てます。つぎに、もう1本の杭と縄でつないでコンパスのようにして円を描きます。

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②    正方形を描く

 もう1本の杭を立てて、その影を利用して、冬至の日の入りの地点と円の中心を直線で結びます。そして、下図のような方法により正方形を描きます。

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③    コホシ(九星)を祀る

 その正方形の中心と周囲八方向に、宇宙の創造神アメミヲヤ(アウワ)とトホカミヱヒタメの8神を祀ります。さらに想像を膨らませると、これが後にユキノミヤになったのかもしれません。

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④    もうひとつの正方形を描く

 つぎに、先ほどの正方形の隣に、同じ要領でもう一つの正方形を描きます。

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⑤    キツヲサネの五神を祀る

 その正方形の中心と周囲四方向に、東西南北と中央を守護するキツヲサネの5神を祀ります。これが後にスキトノになったのかもしれません。

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⑥    六本柱の位置が決まる

 上記のように隣り合う2つ正方形を描くことで、六本柱の位置が決まります。

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⑦    アミヤシナウの六柱神を祀る

 その六本柱にアミヤシナウの6神を祀ります。アミヤシナウはムワタ(六腑)の神とも言い、身体を守護します。

 また、先ほどのキツヲサネの5神とアミヤシナウの6神を合わせて「ウマシアシガイヒコチ神」と言い、「ハラワタ、イノチ、ミケ」(身体、命、食糧)を守る神とされます。

 ちなみに、池田満先生によると、アミヤシナウはそのヲシテ文字の形から考えて「アミヤ、シナウ」であり、宇宙の中心アモトからの地表上にての形成の流れを意味するとおっしゃっています。それを三内丸山の六本柱に当てはめると、宇宙の中心アモトからの恵みを、柱を通して受け取る、といったところでしょうか。

 あるいは「アミヤ、シナウ」とは、天(ア)の宮を地上に建てる、という意味だとも考えられます。いわば「地上の天宮」ですね。

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(4)柱の間隔と「ヨソヤ」の神

 六本柱の間隔はすべて12縄文尺で統一されている、と前述しました。

 大型掘立柱建物がヲシテ文献に記されたタカマであり、それは縄文人の宇宙観を表すフトマニ図を地上に写したものだと考えると、なぜ柱の間隔が12縄文尺なのか、その意味が分かります。

 『ホツマツタヱ キツノナトホムシサルアヤ(東西の名と穂虫去る文)』に以下の一節があります。

クニモリヲサム ヲシヱクサ (クニ守り治む 教えぐさ)
カラスアフギハ ソフハナリ (カラスオウギは 十二葉なり)
ヒアフキノハハ ミナハラフ (檜扇の羽は みな祓う)
アワノヨソヤゾ       (アワの四十八ぞ)

 意訳すると、つぎのようなことです。

 「檜(ひのき)の板を薄く削って作った檜扇は、クニを守り治めるための教えを象徴するものである。檜扇に似たカラスオウギ(植物)には12枚の葉がある。檜扇の羽(ヒオウギの葉)はすべての災いを祓う。それはアワ歌の48音の力による。」

 アワ歌は「アカハナマ イキヒニミウク フヌムエケ ヘネメオコホノ モトロソヨヲテレセヱツル スユンチリ シヰタラサヤワ」という五七調の歌です。なんだか暗号のように聞こえますが、いろは歌のように、ヲシテ48文字をすべて1度ずつ用いて作られています。

 では、12枚の葉とアワ歌48音(ヲシテ48文字)がどう関係するのでしょうか。それを詳しく説明すると、今回のテーマから外れてしまうので、それはまた別の機会に改めて書きたいと思います。結論だけ言うと、じつは12枚の葉を4組にして48とするのです。

 古代では、ことばの1音1音に神が宿っているとされました(いわゆる言霊)。つまり檜扇は、その4組48枚の羽を全48の神々に見立てた、すべての災いを祓うためのマジックアイテムなのです。

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カラスオウギ(ヒオウギ

 さて、三内丸山のことに話を戻します。

 六本柱の間隔が12縄文尺であるのは、それと同じです。六本柱の2つの正方形は、それぞれ周囲が48縄文尺です。つまり、ムラを守り治めるため、建物の周囲にすべての災いを祓ってくれるヨソヤ(四十八)の神々を祀ったのです。

 先ほど、大型掘立柱建物はタカマであり、それはフトマニ図を地上に写したものだと述べました。そのフトマニ図とは、アワ歌48音を図に表したものです。

 整理すると以下のようになります。

  • 大型掘立柱建物=タカマ=フトマニ図(48の神々)を地上に写したもの
  • 大型掘立柱建物の六本柱の2つの正方形=各48縄文尺

 これが、六本柱の間隔が12縄文尺である理由です。

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(5)巨大な土のサークルと「アモト」

 さて、最後に盛土のことです。

 大林組プロジェクトチームが面白いことを指摘しています。南盛土と北盛土は一見するとそれぞれがまったく独立したものに見えますが、実は連続性をもっており、地形的にみて環状盛土ではないかというのです。

 もしそうであれば、その規模は内径で130m、外形で220mという巨大な土のサークルになります。

 また、下図を見ると一目瞭然ですが、人の居住区域は例外なくサークルの外側にあります。そして、盛土は、人間や動物、ものなどの魂を神々の世界に送り返す「送り」の儀礼と関連が深いと考えられています。これらのことから、サークルの内側は聖域であったと考えられます。

 ホツマツタヱによると、私たちが魂と呼ぶものを、縄文人は「タマ」と「シヰ」に分けて考えていました。タマは宇宙の源である「アモト」からもたらされるもので、一方、シヰは「クニタマ」つまり地球からもたらされるものです。そして、人は死を迎えると、タマとシヰを結び付けていたタマノヲが解け、タマはアモトへ、シヰはクニタマへと帰っていきます。

 三内丸山の環状盛土は「ア」のヲシテ文字の形。そして、環状盛土の内側はアモトを表しているのではないかと思われます。

<2/13追記>

 共同研究者の角大師さんから「環状盛土はフトマニ図のミソフ神に当たるのではないか?」との指摘がありました。なるほど、その通りですね。フトマニ図の外環に描かれたミソフ神は「物質界、この世」を表し、内円に描かれたアモト神は「非物質界、あの世」を表します。

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掲載元:https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/upload/img/042_IDEA.pdf

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掲載元:https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/upload/img/042_IDEA.pdf
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左:「ア」のヲシテ文字、右:フトマニ

 

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文責:与左衛門、共同研究者:角大師

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